IDF Story
CCKの誘導路をタクシングするIDFのプロトタイプ 1号機(A-1)
プロトタイプ3号機(A-3)は、航空祭などにも展示されるなど IDF計画のシンボルとしてA-1と共に活躍した。
測評隊による「天剣T型」「天剣U型」のテストも盛んに行われたが 単座量産5号機(1405)は、天剣T型を4発も装着して飛行テストをする事が多かった。先行量産も3号機以降迷彩が明るい新型の迷彩に変更された。(1993年10月)
第7中隊は、1992年7月1日に最初のIDF戦闘機を受領 これは複座の量産1号機(1601)であった。 1993年11月22日に10機目の量産機を受領して 編成完了しているが その所属機は、以下の通りであった。
 単座機    1401 1402 1403 1404 1405 1406 
 複座機    1601 1602 1603 1604
編成完了時点で 中隊長は、台東志航空軍基地のACM教官だった常四偉中校に変わった。
複座量産3号機(1603) 新迷彩
台湾の第3世代戦闘機群の1つ 国産の中型戦闘機”経国” 既に実戦配備が完了して久しいが、開発当時から「Indigenous Defensive Fighter」(国産防空戦闘機)の略称 I.D.F戦闘機として名前が定着し 経国と呼ばれることは少ない。この機体が開発されるまでの経緯と 著者が配備までの間写真をものにしようと追い続けた道筋を振り返って ここに「IDF Story」として まとめていく。ここに記載する文面は 1995年1月 同人誌 THE HONETS’ 80に投稿した時のものをベースに 時代の流れにあわせ多少修正を加えたものである。(2004年12月 記) 
伍克振上校は、F-104部隊での長い経験と技量からAIDCのテストパイロットに選ばれたエリートであり、この日は原型二号機(以下 A-2と略す)の200回目の試験飛行を行った。午前中に低高度高速飛行を消化し 午後にもう一度同様のテストを行う予定になっていた。13時38分にクリアランスを受けCCKを離陸し 台中から南西方向の海上にあるR-11訓練区域に向かった。高度8,000ftから 12,000ftへ上昇後 今後は5,000ftにかけて降下し マッハ1.1から0.98へ速度を移行させていたが 13時52分56秒、突然期待に振動が発生、伍上校から「減速の要あり」との最後の無線コールが発せられた。53分05秒 右水平尾翼が付け根から切り離されてしまった。チェイサー(随伴機)のF-5Eからは、A-2は、機体尾部から白煙を吐きながら左にロールをうち降下していったとの報告あり、チェイサーからの呼びかけに応答はなく、53分29秒にベールアウトするのが視認された。機体は台中沖24Kmの地点に海没した。関税局の監視艇がパラシュートの着水を確認し救助に向かったが、呉克振上校の呼吸はすでに停止していた。充分脱出する余裕がありながら、できるだけ機体を陸地に運ぼうとした為、脱出が遅れたものである。彼の命と引き換えに原因の早期発見が出来たとされている。空軍士官学校54期享年41歳であった。(引用ここまで)
 現在 彼のパイロットスーツ姿の銅像がAIDCの敷地内に建立されており、銅像となった伍上校に見守られてAIDCの滑走路をIDFは離陸に向かう。こうした悲劇はあったものの、その後テストフライトは順調に消化されていった。
部隊配備
1.鷹揚計画 機体全体の設計と開発
2.雲漢計画 エンジンの開発
3.天雷計画 レーダー及びFCSの開発
4.天剣計画 ウェポンシステムの開発

 G.D社や ALLIED SIGNAL AEROSPACE社、その他イスラエルのメーカーまで多くの協力を受けながら本格的な開発が開始されるや、大陸中共政府を刺激しないためか 開発に関する報道はしばらくの間 ピタッとなくなってしまうのである。アメリカ政府もあくまで表向きは、台湾の独自開発に民間レベルでの協力をしているだけとの形を維持していた。しかし 上記の4計画は、何れをとっても台湾の丸々の自主開発ではなく 大方はアメリカで開発された技術かシステムそのものの焼く直しに過ぎなかった。敢えて台湾の独自性が強調できるところは、機体の形状と 台湾が得意とする電子部品を駆使した空対空ミサイル等の部門だけであった。ミサイルの開発に関しては、すでにイスラエルの「ガブリエル」を参考として海軍が「雄風T型」の開発を終えており またナイキハーキュリーズの後継として 米軍のパトリオットミサイルと同等の性能を目指して「天弓計画」もスタートさせていた。エンジンなどの開発に比べれば この部門の経験と技術力には自信があったと思う。また 機体の形状は、独自開発を最もアピールできるところであり 国産機の開発は、国威向上に大いに貢献するところでもある。多くの国が 輸入機だけではなく 敢えて国内開発にこだわり高い開発費をかけて国産機を調達しようとするのか。これは、国産化による技術力の向上や雇用対策だけではない。国威高揚に伴う軍人の士気の高揚も期待されるはずである。日本のFS-Xが アメリカの横槍で 形状がF-16の焼き直しになったことは、多くの関係者 航空ファンを落胆させたが 独自の形状というのは、国産機にとって非常に重要である。


鷹揚計画では、当初概3種の機体形状が検討されたようである。

1. A構型  単発でF-16XLのようなダブルデルタ翼機
2. B構型  双発で、ラファイルやラビのようなカナード翼を持つ機体。
3. C構型  双発で、F-18のような双垂直尾翼機。

風洞実験や様々なテストの結果に基づき C構型案を基本として検討を進めることとなり 最終的に現在の形状になったものと想像する。このC構型には、「XF-6」と言う名前が与えられていたようである。それは、その時の主力であった「F-5E/F」の後継機種として F-6型戦闘機というネーミングも用意したものだったらしいが F-6と言えば、当時の中共版Mig-19もF-6の別名を持っており 混同を避けるために変更をしたのかもしれない。
が等
私とIDFとの出会い
晩秋のある日 私は新竹から朝一番の高速バスで 台湾第3の都市台中市の駅前ロータリーまで行き タクシーを拾おうとしていた。1990年代の初めである、この頃はメーターで走ってくれるタクシーは 首都台北のタクシーだけであった。その他の地域では いちいち運転手に行き先を告げて料金交渉をしなければならなかった。面倒ではあるが 交渉の醍醐味とは大げさな言い方になるものの 時にはやたら安く利用できることも有り こうした駆け引きを楽しむ傾向もあった。CCKにはバスも正門まで出ていたが 1時間に1〜2本と少なく 時を急ぐものにとっては全く不便極まりないものだった。特に少しでも早く現地に行って成果を得ようと気の焦る私にとっては、少なくとも最初に選択する手段ではなかった。その日も気は進まないものの タクシーの運ちゃんとの交渉をすることとした。(ちなみに台湾では”運ちゃん”と言う外来語が定着している)結果から先に言うと その日の交渉は口げんかまで発展し 決裂した。周囲からも「何を熱くなってるの?」みたいな視線を浴びることになる。
 N.O.B 「C.C.Kまでいくらでいってくれる?」
 運ちゃん 「300元だな」 ドカタのような浅黒い顔した角刈りのおっさんである。いきなり大きな声である・・・
 N.O.B 「120元で言ってもらえないか?」
 運ちゃん 「冗談かますなよ! 普通は350元は貰う距離だ」 ここですでにカチンと来た・・・
 N.O.B 「この前は120元で言ってくれた運ちゃんがいたぞ!」  こっちも嘘かましたろ・・・
 運ちゃん 「それは昔の話だろう、今は肩章1本でさえ300元は払うぞ!」 若い少尉さんでも300元出すと言いたい訳である。
 この客を客とも思わない態度に腹を立てた私(まだ客ではないが) こっちもいきなり大声になってしまった。
 N.O.B 「バスなら15元で行けるじゃないか!それじゃボリ過ぎだろうが」 自分が理論的でないのは分かっていたが・・・
 運ちゃん 「なら バスで行けばいいじゃないか・・・」  そりゃそうだ・・・何とアホな私・・・
 N.O.B 「もういい 話にならん!!」  話にならないのは 自分自身だろうな・・・
向こうが大声出すもんで ついこっちもエキサイトしてしまった。この日は 私も腹の虫の居所が悪かったせいもあって 交渉などと言うレベルの駆け引きもできず すごすごと退散することになった。当然の決烈の後は バス停に向かうことになった。その後はバスを使うことが多くなったが再び交渉した中では 180元まで値切ったこともあった。
 
1995年 各飛行隊は、全パイロットがI・D・Fによる1500時間飛行時間早期達成のため 昼夜の訓練を重ねていた翌年からは空軍最精鋭と言われる嘉義空軍基地へのF-16A/Bの配備も準備され 多くの要員をルーク空軍基地などに派遣していた。ミラージュ2000-5が新竹に配備されれば 中国大陸に睨みを利かす台湾西部海岸の戦術戦闘機連隊は全て新鋭機でラインナップされ、台湾の長年の希望であった世界の第一線機による防空網が漸く確立するのである。(1995年著)
配備につくまでのテスト期間中 IDFは、数度の事故に見舞われている。その最初は、1989年10月29日 原型一号機(以下 A-1と略す)が 離陸滑走中に前輪を破損してランウェイを外れると言う事故が起きた。この日 離陸滑走を開始して8秒後 A-1の前輪は、BAK-12制動ワイヤーを踏んだ際にパンクし 続いて主脚タイヤも破裂しバランスを失いながら 機首を地面に押し付けるような姿勢でランウェイを逸れて 中破している。レーダーコーン、主脚、前脚 左翼がやられてしまった。この時の模様をコクピット内から撮影したものが公開された。それによると A-1を操縦する呉上校の「Ready Go」のボイスと共に滑走を始めるが 数秒後に機体に軽い揺れが生じ その直後から機体が右に傾斜し始める。呉上校が必死になって水平を維持しようとするが 大きな揺れと共に傾きはひどくなり ランウェイを右に逸脱してしまった。幸いパイロットは、無事であった。原因は、制動ワイヤーを踏んだ際に タイヤに損傷が発生したらしいと言うことで 詳しい説明はなかった。次に発生した事故は、人身事故となってしまった。1991年7月12日のテストフライト中の事故では、A-2が墜落して 呉上校が殉職してしまった。この状況は、友人である埼玉のMM君が翻訳している文書をそのまま引用させていただく。
後に事故で失われたプロトタイプ2号機(A-2) (10002)
機体の開発と生産を請け負うAIDC側の設備も1980年4月には、3つの大きなセンターが完成しており プロジェクトの受け入れ態勢は充分整っていた。3つのセンターとは、機体の組み立てと各種システムの組込み それらの最終チェックを行う「介壽一廠」、エンジンの製造、組立てと試験調整をする「介壽二廠」、航空機の電子機器類の製造 、各種環境テストを行う「介壽三廠」である。

1983年3月の基本設計から 1985年7月に全体設計を終え、開発決定から約7年の月日を経た1988年12月に 原型第一号機(A-1)はロールアウトした。
中華民国の国旗である「青天白日満地紅旗」の3色に彩られたI.D.Fの原型一号機(10001)は、国民と軍関係者の期待を一身にあつめて 華々しいセレモニーと共にその姿を現した。セレモニーは、AIDCの格納庫に設営され 李登輝総統、総参謀長(この人物は後に行政院長まで登りつめるが 李総統との関係不和で辞任する)などが待ち受ける中 誘導路をタキシングして会場に進入 会場中央に描かれた青い円の中心でピタリと停止した。エンジンが停止した後 李総統がI.D.Fの赤く塗られた機首下面に「経国」と書かれたマグネットプレートを貼り付けて「経国号」と命名した。その後 自らコクピットに座り 来賓に向かって敬礼し 得意のサムアップを繰り返した。この様子は、翌日の各新聞の一面を飾ったことは言うまでもない。この時 IDF戦闘機を会場まで操縦したパイロットが IDF計画の初段階から携わり ロールアウト後もテスト飛行の中心的な役割を負った責任者である 呉康明主任(空軍上校=大佐)だった。彼の経歴は詳しくわからないが 1982年頃は、桃園基地の第26戦術戦闘機中隊に所属していたことが「中國的空軍」誌を通じて唯一判ったことである。
 この呉康明上校と伍克振上校(故人)の2名は、I.D.Fロールアウト後の関係セレモニーやテレビの報道番組には必ず顔を出しており I.D.F計画におけるシンボル的な存在であった。
エンジンについては、アメリカのギャレット社製TFE1088となったが、このエンジンの双発でも単発のF-16に比較して57%の推力しかないため 台湾側はこのエンジンに否定的な姿勢であったらしい。空軍ももっと推力の高いものを望んだが、大陸の中共政府を刺激することを恐れたあまりか政府は、首を縦に振らず 将来の改装計画ではより強力なエンジンを供給するとの約束で台湾側を説得したとも伝えられる。2005年頃から退役が始まるとされていたI.D.Fの後継機として エンジンのパワーアップとカナード翼を追加したCCV機 ADF戦闘機(Advannce Defense Fighter)計画は、この頃から計画としては描かれていた。天雷計画については、航空専門誌の徳永さんの記事に詳しく解説されているので ここでは省略したい。当初 台湾の新戦闘機計画には、開発費と250機分の新規生産を含め 1700億NTドル(内 研究開発費 400億NTドル)が見積もられており 当時のレートで 日本円にして1兆円を超える大プロジェクトであった。
航空工業発展中心(AIDC)の試飛室(テストパイロット班)は、空軍より選りすぐりのメンバーが出向の形で配属されている。一旦このAIDCの所属になった場合 仕事の秘匿性の問題から 再び現役の部隊に帰属は少ないと言われている。彼らは、飛行テストの際 ブルーの飛行服を着用していたため 一般のエンジやグリーンの飛行服を着用するパイロットとは、遠目でもすぐに見分けがついたものである。(その後は、彼らもグリーン色の飛行服に変わっている)。また 試飛室所属のパイロットは、そのほとんどが中校以上の士官で占められていた。呉康明上校、伍克振上校、陳康定中校、朱泰樺中校らを中心に 試験飛行は繰り返し行われた、また 各パイロットの指定機の概念があったようで 呉康明上校は、一号機(A-1)、伍克振上校は、二号機(A-2)、陳康定中校が三号機(A-3)を専従でテストを行っていたようである。したがって マスコミにも公開された1989年5月28日の原型第一号機(A-1)の初飛行も主任テストパイロットである呉康明上校が一号機の操縦桿を握って行われた。この5月28日の初飛行は2機のAT-3訓練機にチェースされ さらにF-5Fを観測とカメラ撮影用に後方配置する段取りで 1回のテストフライトで巡行飛行、減速飛行、低空飛行の3科目を消化して 無事着陸した。初飛行まで 非常に時間がかかったためI.D.Fを”I Dont Fly”(飛べない飛行機)の略かとやじる向きもあったが 漸く”I Do Fly”となったわけである。 
開発の経緯については、航空雑誌などで詳しく解説されており 重複する部分もあるので 出来るだけ重複を避けた形で記述を進めたい。行政院の開発決定を受け 開発の中心となるのが中山科学研究院であった。”中山”は、建国の父 孫文のあざなである。中山科学研究院は、IDFの開発を4つの部分に分解して それぞれにプロジェクト名を冠し 作業を進めた。
1981年の秋頃だったと思うが テレビの報道で行政院(日本の内閣に相当)の自立小組が、国産戦闘機の開発決議を実施 蒋経国総統にその開発モデルを引き渡すセレモニーが報道された。私は、このことに非常な関心を持っていたので食い入るようにテレビ画面を見ていた。関心の対象は その引き上渡されるモデルがどんな形状をしているのか 国産戦闘機のお姿が見たかったのである。行政委員長から総統に手渡された模型は なんと大きな晴天白日旗を両翼につけたF-16Aであった。「おいおい F-16のコピー機作るつもりか??」と大いにがっかりした記憶があるが 考えてみれば当時急な決定でもあり 基本設計もこれからと言う時期で適当なものが無かったのだろう。(某国では FSXがF-16のコピーになってしまったのは 大いなる皮肉に思える)しかし こんなところにもF-16へのこだわりを感じ また台湾独自開発の戦闘機に大いに期待したものである。その戦闘機が 今私の目の前を飛んでいるのである。
先進各国との国交こそ無かったが 経済交流は、中共以上に盛んに行われ 毎年2桁の成長を続ける台湾は、先進技術の導入と自己開発能力も備わっていた。(一方の大陸中国は漸くケ小平が実権を握って 経済開放路線がスタートし始めていた時期で 文化大革命のダメージからもまだ抜けきっていない。)先端技術の部門は、全く1から新たな研究開発できる基礎開発能力をこそ無かったものの 導入された技術を幅広く応用する充分な応用能力を備えていた。兵器丸ごとの輸入が不可能な場合 技術移転さえあれば 不足している部分の独自開発は時間の問題だけであった。だから 次期戦闘機の自主開発決定は、極自然な成り行きだったのかもしれない。 
しかし 当時の台湾政府は、一向に首を縦に振らないアメリカ政府の承認をひたすら待つだけの余裕は無かった。中共は、すでにF-104の性能を上回るMig-21のコピー版J-7(当時はF-8とも呼ばれていた)を200機前後配備、バングラディシュへの輸出も噂され(実際に実現したのはかなり後になるが) 機体性能の信頼性は高い水準まで来ているように伝わっていた。これら中共の新鋭機は実際は首都周辺と北方に優先配備されており 台湾の対岸にある杭州福州の基地には古いJ-6(Mig-19)が中心であったはずなどだが 心穏やかではいられなかった。また すぐ隣の沖縄嘉手納基地には新鋭のF-15Cが配備され 航空自衛隊のF-15Jもロールアウト間近にあった。このように周辺国が次々に新鋭機を導入する中 1979年4月25日には、在台米国防衛司令部閉鎖、最後のアメリカ軍事顧問団が帰国し 台湾はいよいよ独自で身を守るしかなくなっていたのだ。相当な危機感を感じていたはずである。
国産戦闘機開発までの経過
私が勤務で台湾に駐在していた頃(1981-1983)の台湾政府は、F-104を継ぐ新戦闘機は、F-16しかないと方針を決めていた。そして F-16購入に徹底してこだわった(少なくとも当時 台湾で暮らしていた私には メディアを通じそう思えた)。1980年代初頭の台湾は、国民党一党独裁の準戒厳令下に置かれており 軍事情報などは少なかったことは 本ホームページの冒頭でも 述べたとおりであるが それでも次期主力戦闘機の選定問題は、新聞テレビを通じよく耳にした。その中で特に多く取り上げられていた機体が F-16戦闘機についての報道であった。
  NATO、イスラエルのF-16採用、また 発展途上国でもF-5Eの後継として F-16が検討されていること 性能的に優れていること等等である。日本と同様四方を海で囲まれている台湾では、航空自衛隊同様 単発エンジン機より双発エンジン機を重用する傾向が強かった。すでに 米海軍が採用を決めたF-18Aホーネットもロールアウトしていたがので 当然次期戦闘機候補となってもおかしくはなかったのだが F-18の話題などはF-16の取り上げ方に比べれば無いに等しかった。F-16の性能のすばらしさ 各国への配備状況などを繰り返し報道する背景には 空軍がF-16を導入するうえでの 世論の誘導と衆知徹底が目的であったと考えて間違いが無いだろう。当時の台湾のマスコミは、現在の大陸中国同様 政府の方針に忠実に動いていたからである。
 当時のアメリカ政府は、中国への配慮からF-16の台湾への輸出を認めていなかったが、断られても断られても、様々なロビー活動を通じ F-16の輸出承認を取り付けようとする活動や 中共(中国共産党の支配する中国を示す言葉で 日本ではほとんど死語となっている)の政治的妨害等も時折報道されていた。何故 そこまでF-16にこだわるのか私には理解できなかったが、F-86 F-100 F-104とそれまで新鋭機を導入していた台湾が F-4ではなくF-5を使い始めた時点から発展途上国並みの水準になったと感じていたこと F-16は、準先進国としての台湾のプライドを回復する象徴的な存在だったのかもしれない。また 一度こう決めたら達成するまで根気良く何年でもあきらめず進む中国人気質も感じられた。結局10年以上先にはなったが 150機もの輸出承認を得て大願成就となったわけである。その間も地道な交渉が続けられていたはずである。
すでに時間は午前10時を回っていた。人目につかない撮影ポイントは500メートル先、暫く歩かねばならない しかも午前中のみ順光なのである。突然 私の目の前を 青赤白の3色に塗り分けた戦闘機らしき機影が横切った。「 IDFだ! T/Gしてくれ、T/Gしてくれ 頼む!」 機体は右手の森林に消え 再びエンジンを噴かす音が聞こえた。タッチアンドゴー(T/G)である。私は急いで撮影ポイントに向かい そこで次のランディングを待った。I. D.Fのプロトタイプ1号機(A-1)は、双発にしては甲高いエンジン音を響かせながら 約5分間隔で 繰り返し繰り返しT/Gを行った。私は撮影ポイントの工事現場の土手の上で 台湾に駐在勤務していた1981〜1983までの事を思い出しながら 一人感動に浸っていた。
CCKは、このバスの最終降車点である。CCKにつく頃にはバスの乗客は私一人になっていた。本来 撮影ポイントに行くためには 正門の一つ手前の停留所で降りなければいけないが 何か飛んでいる機体があるかと注意を空に向けていた私は 降りるべき停留所を過ぎても それに気付いていなかった。運ちゃんが初めて私に声をかけた「あんた 何処で降りるんだい?」 私は「次の停留所で下ろしてくれ」と答えたが 「さっき過ぎたのが最後の停留所だ」とのたまわった。私「・・・・・」。唖然としている私を乗せたバスは、CCK基地の正門前の十字路を右折し、正門に向かって一気に加速した。ぎゃ〜!まずいでないの・・このバス CCK基地内に入ってしまうのか・・
 その時 ふと1977年の沖縄行のときの記憶がよみがえった。あの時 タクシーの運ちゃんに「普天間基地まで行ってください」と頼んだ私を 運ちゃんは何と親切にも基地ゲートをさっさと通過し 中まで入って私を降ろしたのである。タクシーは通行証を持っていても 私は入館証があるわけではない。運ちゃん「眺めいいだろう!ここから撮ればばっちりだ、ここで撮ってもいいんだよ」と”勝手な許可”を言い残して立ち去っていった。確かに普天間のランウェイが目の前にあるすばらしい場所であるが ここって基地内だろう・・・立ち尽くす私は、本能的に危険を感じ 一切カメラには手をつけず そこでしばらくじっとしていた。当然 すぐに駆けつけた海兵隊に捕まり 所持品検査を受けて強制退去である。

 米軍ならカメラマンに理解があっても CCK基地内に入って所持品検査を受けるとなれば スパイと見られる可能性が大である。戦慄の数秒間。幸いバスは 正門の直前で停止し 運ちゃんは何も言わずにさっさとどこかに消えてしまった。運ちゃんの後を追うようにバスを降りた私は、正門の衛兵に目を合わさないように注意しながら バスを降りて目的地に向かう。すでにゲートの警護所から数人の衛兵が出てきて”何やつ!”とばかりにこちらを睨んでいる。私は彼らに軽く手を振って 近隣の者を装いバスから離れた。すぐにUターンしてこの場所を離れ 撮影ポイントに向かわねば時間の無駄である。しかし 冷汗ものであった・・・歯車がかみ合わない時は全て負の展開となる。
バス停まで言った私は、行き先に”CCK”と書いてあるバスを見つけ直ぐに乗車した。今日は運がいい・・・1時間1本のバスが すでに待機状態であるなどと勝手に喜んでいたものの 20分以上待つのに運ちゃんは来ない。運ちゃんは、出発時間を15分以上過ぎてのこのこ現れた。道草食っていたのである・・・・・イライラしながら私は運ちゃんを待っていたが、爪楊枝を口にくわえたまま シーシーしながらバスに乗り込むなり 乗客には一言の侘びもなくいきなり強烈なGをかけてバスを発進させた。おまえスポーツカー運転してるつもりか?と思わんばかりに ぼろバスを飛ばすは飛ばすで 乗用車をごぼう抜きである。公共バスでカーチェイスやるやつはじめて見た・・・・途中の停留所では 乗車の前に財布から小銭を取り出すのに手間取っていたおばちゃん連中を置いてきぼりである。さんざん待たされて バス停で乗車拒否されたおばちゃんたちは気の毒としか言えない。早く現地に行きたいと思っていた私でさえ 手すりを握る手は汗ばんでいた。
測試(テスト)期間におけるI.D.F
I,D,F開発の経緯
1992年の4月に初期量産の数機が空軍に移管され 「測試評估隊」による運用テストが7月から始まった。(以下 測評隊と略す)測評隊は、空軍総部武器獲得管理室の隷下にあり CCKに拠点をおく 航空自衛隊の岐阜の飛行開発実験団に相当する部隊であるが 固有の機体を保有しているわけではない。所属するパイロットは、すべて IDF,F-5E/F、F-104、AT-3の操縦資格を保有し 通常は、上校1名 中校6名 少校3名 大尉3名の計13名で構成されていた。今回 IDF配備のための特別編成が組まれ 最初の実戦部隊となる 第7戦闘機中隊の種子教官となる6名を含め 16名のパイロットと 整備員で特別編成された。
 彼らの任務は、主に部隊運用を円滑に進めるための事前の飛行テスト(異機種空戦DACTを含む)と部隊運用マニュアル作成、AIDCに対する機体の改修や改善要請などが彼らの任務である。すでに運用マニュアルが準備された外国製輸入戦闘機に比較すれば IDFは、一から全て自前で運用方法を確立させなければならない。それだけ 測評隊の役割は重いのである。また 今回 測評隊の任務の中には、IDFと平行して開発が進められてきた新型の空対空ミサイル「天剣T型」「天剣U型」の運用テストと運用マニュアルなどの作成も含まれていた。この測評隊の責任者だった鐘魯萩上校が 後にIDF配備の最初の航空団427聯隊第3大隊の2代目大隊長に就任する。
AIDCにおけるテストフライトは、当局がかなり秘匿に気を使い、格納庫からテスト機がランウェイに出す際も風向きに関係なくCCK南側のタキシーウェイを使用していた。それを撮りに行く訳であるから、それなりの覚悟が必要だ。CCK-FOX君から最初にこの撮影ポイントに連れていかれた時はかなり緊張した。何と背の高いススキの群生を匍匐前進で進みススキの中でじっとしていなければならないのである。IDFのエンジン音が近づいてきたら、急いでレンズだけススキの隙間から出し撮影する。撮影を終えたら直ぐににススキに隠れるといった具合だ。何度かこの場所で撮影したら 慣れて何も感じなくなってしまったが、実際は何ともスリルのある場所だった。しかし ここでIDFの先行量産機やプロトタイプの撮影に成功した。(上は、複座量産1号機(1601)、右の単座量産1号機(1401)は、翼端に天剣T型ミサイルをつけている。
1992年3月9日、空軍第427戦術戦闘機聯隊第3大隊に初のIDF中隊ができた。F-104G時代に狼の頭のインシグニアで有名だった第7戦術戦闘機中隊である。当時F-104Gの減勢によりほとんどぺーパースコードロンとなっていた部隊が、愈々新鋭国産戦闘機の最初の飛行隊として復活し、種子教官中隊としてIDFパイロットを育てる役割を担う事になった。初代中隊長は、AIDCのテストパイロットであった姜徳生中校が任命された。第7中隊の役割は言うまでもなくIDFパイロットの増殖であり、新規受領したIDF戦闘機のテストフライトも任務の一つであった。彼らのフライトスーツの左胸には通常第7中隊のパッチが着くのであるが、新しく「Soaring Eagle/経国」と書かれた種子教官中隊のパッチがついて 7中隊のパッチは右胸に移動していた。「Soaring Eagle」は、第7中隊に付けられた部隊名称”翔鷹中隊”の英文表記である。
複座量産2号機(1602) 旧迷彩
プロトタイプの4号機 迷彩塗装の初号機で 機首には、国防部長、参謀総長 空軍の各将官などがテスト飛行 または参観で当機に同乗したことを示すプレートが機首に黒で書かれている。
複座量産1号機(1601) 旧迷彩
単座量産1号機(1401) 旧迷彩
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